熊楠が「書く」ときには

熊楠が「書く」ときには、かならずしも記憶に頼って楽々と引用していたわけではなかった事実が重要である。もちろん彼は、データのおおくを精確に記憶していたにちがいないが、なにかを書くときには再確認することを怠らず、かなりの苦労をして出典にあたろうとしている。

(中略)

たしかに熊楠は、みずからの記憶力に絶大な自負をもっていたが、それを過信することはなかった。彼の記憶は、たえまなく鍛えなおされ、更新されていたのである。

松枝到「写字生熊楠」(『ユリイカ』1992年7月号 特集=南方熊楠)p.124

崖の上から僕を見おろして

崖の上から僕を見おろして、発破技師はカメラの位置を指示する。もう少し手前、もう少し右。僕は三脚の位置を一歩、一歩とずらしてゆく。

やがて遠くのサイレンの音が消えると、崖が20mにわたって一気に膨れ上がるのが見え、あたりの空気は大きく振動する。噴き出した2千トンの岩石は、空中でその量感を徐々にほぐしながら、カメラをかすめて飛んでゆく。ぎりぎりに。

地面に散らばった石灰岩のかけらの中でカメラを片づけながら、いったい「ネイチュア」という言葉にぴったりの日本語はないか、と僕はいつも考える。技師の指示が毎回あまりにも正確なせいだ。

彼は岩石の「ネイチュア」を確かに理解している。彼は地質と地形を確認し、そこに穴を開け、爆薬を詰める。そして僕に向かって「岩はそこまで飛んでゆく」と予言する。

長い発破の経験の中で、彼は岩石の「ネイチュア」と対話することが可能になった。いまや彼の精神は、岩石の「ネイチュア」と照応しているのだ。眺めたり観察したりするだけでは決して到達できない、自然への理解がここにはある。

via 『畠山直哉』(淡交社、2002年)p.29

 

近代の刑法体系が例外規定として

こうして近代の刑法体系が例外規定として、子供や精神病者を刑罰から免責されるべき人々としてみなしたことは、おそらく本質的な意味を孕んでいたはずである。あらゆる閉ざされた体系的秩序は、その外部に排除される第三項によって裏側からささえられている、という根源的な場所にたちかえれば、近代刑法はその外部にある子供・精薄者・精神病者らによってはじめて、理非弁別をわきまえた責任ある主体としての人間という観念(イデオロギー)を維持しえている、といってよい。(赤坂憲雄『排除の現象学』ちくま学芸文庫、1995年、p.252)

浮浪者の漂白は

浮浪者の漂白は一義的には、わたしたち市民にむけた見せしめ、つまり禁忌としてあるが、と同時に、市民という場所への強いられた定住を生きるわたしたちにとって、意識せざる憧憬の源でもある。わたしたちは、浮浪者を汚ならしい目障りな存在として嫌忌する一方で、触れてはならない、そっとしておくべき秘密の分身のように感じているのかもしれない。(赤坂憲雄『排除の現象学』ちくま学芸文庫、1995年、p.117)

小川家は

小川家はもともと粟田・青蓮院に仕えた寺侍であった。宝暦年間に勤仕を退いて植木師を創業したのがはじまり。代々治兵衛を襲名、「植治」「田芝屋」を屋号とした。

杉田博明『近代京都を生きた人々 明治人物誌』(京都書院、1987年)p.8

レッシングの偉大さは、

「レッシングの偉大さは、人間世界の内部では唯一の真理は存在しえないという理論的洞察を持っていたということだけにあるのではなく、それが存在しないことを喜び、したがって人々の間の無限の語りあいは、いやしくも人間が存在するかぎり決して終ることがないであろうということを喜んでいたことにもあるのです。唯一絶対の真理がありうるとするなら、それはあらゆるこうした論争が死滅することになるでしょう。ドイツ語圏におけるあらゆる論争の元祖であり師であったレッシングは、こうした論争のなかに安らぎを感じ、またそのなかで最大限の明晰さと明確さを発揮していました。したがって、かれにとって論争の死は人間性の終焉を意味したことでしょう。」ハンナ・アレント『暗い時代の人々』(ちくま学芸文庫、2005)pp.50-51